はたおりひめ



 ちりんとんとんきっちりとん。

 杼送りの度に杼の小車に嵌め込まれた金環がちりちりと鳴る。続いて筬が緯糸を打つ音。それから踏木の下がる音。
きいちりとんとんきっちりん。
池の底の機屋には、単調に繰り返される織機の音色が満ちている。おおどかで耳当たりのよい韻は池の水をかすかに震わせ、水に遊ぶ魚族の鱗を擽った。機屋の真中に据えた高機に向かって腰を掛け、杼と筬を互みに繰る白雪を、鯉七は床の円坐から仰ぎ見ている。
 母なる水の原理を司る白雪に天が課した役目は、天の定めた運命に、機を織り帛地を織って形を与えることだった。人の魂の衣裳を織るのが白雪の務めである。
経糸は変わらぬものを。緯糸は変わりゆくものを。天意の染めた糸のままに帛地を織る。五色の糸でいつしか織り出された帛地の意匠の通りに一人の人間が生きて、そして死ぬ。
とんきこちりちりとっとっきっ。
白雪が、杼口を開ける為に踏木を踏む。すると裳裾と綜絖とがひらりと上がる。裳裾の奥に染み一つない絹の足袋が覗いて、鯉七は慌てて目を逸らした。誰にともつかぬ羞恥が瞼の裏に凝っている。ごく弱い眩暈が閃いた。
熱を払うように緯管に糸をぐるぐると巻き付け、それからその速過ぎる仕事ぶりは白雪に対しての敬虔さを欠くものだと考えて、そっと戻してまた一からやり直した。
今、杼の内に装填された緯管の糸が、もうそろそろ尽きようとしている筈だった。
機を織る白雪の側で管巻をするのが鯉七は好きだ。
白雪の、名に恥じぬほど白い指先が、緯管を求めて翻る。薄く血の色を透かした爪。爪先の硬質な白。それら全体が鯉七の手を求める          否、鯉七の手にした緯管を求めるのであったが、だとしても鯉七はその瞬間、ほんの一刹那の間だけ、白雪に求められる夢を見ることができた。
ちりとんきいちり……
 「あら。糸が終わりみたい」
 筬に添えていた手を空に浮かせて白雪が言う。筬は経糸を伝って、一番最後に織り入れた緯糸のわずか手前まで滑り降りた。経糸が撓んで弧を描く。
差し出された掌に、鯉七は慎重な動作で緯管を乗せた。触れることは叶わなかったが、火照った膚から立ち昇る熱に指が痺れた。白雪は杼から取り出した緯管をぞんざいに放ると、新たに緯管の入った杼もそのままに、後ろへ大きく伸びをした。
伸ばした姿勢で、足元の、既に管だけになった緯管を軽く蹴り飛ばす。織機の四辺には緯管の骸が散乱して、これまでに織り込まれた緯糸の量が知られた。
 「あーもうやだやだまだ終わらないの?糸はあとどれだけあるわけ?」
 口を尖らせて言う白雪に、鯉七は恐る恐る糸枠を見せる。糸枠は、暗黄色の糸に横木すら透かさず隙間なく覆われている。
減ったようにも見えない糸の残量を目にした白雪は、美しい眉をきりりと吊り上げて、そして糸枠を鯉七の手から払い落とした。
 「姫様!?」
 「なんでそんなに残ってるのよ!それに暗くてダサい模様!」
 糸枠は二回りばかり地面を転げて横倒しになり、伽藍の内部をあられもなく曝した。外方を向いた白雪が声を荒げる。
 「ええ嫌らしいこの帛地!もう見たくもない!」
 「姫様、それは」
 「仕立ての衆とて嫌がろう!どうなってんのよ天のセンスは!」
 「姫様!」
 帛地は確かに美しいとは言えないものだった。が、この帛地から仕立てられた衣を召して人の世に出てゆく魂が、まだこちらがわに存在しているのだ。
魂の纏った衣の通り、取り立てて美しくもない、けれど長い一生を過ごすその魂を思うと、鯉七は詮無い気持ちになった。
一人に一つの生である。
短いのもあれば長いのもある。
美しいのもあれば醜いのもある。
鯉七はそう言おうと思ったが、白雪の癇癪に火を注ぐことにしかならないと思い直して口を噤んだ。朝から機屋に篭もって、気の乗らない意匠の帛地と向き合っている白雪が、文句の一つ二つ口に出したとて仕方ないではないか。
取り成すように、少し前に織り上がった帛地の話を持ち出した。
 「仕立ての衆ならそれよりも、この間の織物が美しくて、刃を入れたら悪いと言ってます」
 白雪はまだ外方を向いたまま、それでもいくらか眦をやわらげる。
 「あの帛地が、そんなに?」
 「そりゃもう!」
 「そう」
 そこで漸く鯉七の方を見て、少し笑った。
白牡丹の蕾の豊かに実ったのが、身の内に孕んだ芳香を和えかに洩らしたような笑みだった。
あまりにも甘やかな香りに中てられて、鯉七は息を忘れた。
 「あたしも、あの帛地は気に入ってるの。誰があれを着るのでしょう」
 己の笑みに中てられた鯉七が胸の動悸を抑えかねているのにも気付かず、白雪は無邪気に首を傾げる。すると黒髪がさらり肩に掛かった。
 「流水文に白百合の花。あんな美しい意匠は滅多に見ない」
 「はい」
 「でも短いのが可哀相ね。あれじゃ長くは生きられないわ」
 ふ、と眉を顰めた貌すらが輝くようで、鯉七はひそかに下唇を噛んだ。白雪の挙措はいつでも鯉七の心を掻き乱す。
昂ぶる気持ちを努めて落ち着かせながら鯉七は糸枠を拾い上げ、声の出せぬまま幾度も肯いた。その態度を何か誤解したものか、白雪はやや気色を損ねた様子を見せた。
 「なによ、分かってるわよ。やればいいんでしょ、やれば」
 筬に手を添え踏木を踏んで、杼口に杼を投げ入れる。
ちりんとんとんきいちりん。
違うんですと言いかけて、何がどう違うのか、己の胸中を証し兼ね沈黙する。あなたに見とれて、ともすれば抱き込みたくなっていました、などとはまさか言えまい。できることは管巻と、夢を見ることくらいのものだ。それで満足しなければならない。
とっとんきっちりとんきいちりり。
 「あーあ。こんなにして織ってたって、彦星は来ないんだから」
 ちりとんきっちりとんとんきい。
 「あたしだって機織女で姫なのに」
 ちりんとんとんきいちりとん。



 俺なら          

俺なら天の川なんか泳いで渡れます。



 経糸の列なりは川のようで杼口を潜る杼は魚のようで、それでも鯉七がそんなことを口に出せる道理はなかったのだった。







ひたすら姫に弱い鯉。