はなかざし



 焦げ付く様であった夏が果て、藪沢の関には既にして秋の霧が立ち込めている。十六夜の月も星影も遠く翳んで足元を照らさぬ。一間先すら闇と霧とに遮られ顕らかでない。その様な夜であった。
蟹五郎は先刻から耳孔に滑り入る足音が気になっている。人のものではないらしかったが、だからといって身内と限ったものでもない。そっと両の手の鋏を開いて、それから急に(みち)の上へ踊り出た。誰何するつもりであった。
が、蟹五郎が誰何を発するよりも早く、闖然と行く手に現れた人影に驚いた怪しのものの悲鳴が天に抜けた。
 「うわああああああっ!」
 「うわああああああっ!?」
 出し抜けに叫ばれて驚いたのは蟹五郎である。思わず自らも悲鳴を上げたが、ふと相手の悲鳴に聞き覚えを感じて、だらり鋏を下ろした。
 「ってその声は、お前、鯉七(こいしち)か!?」
 「うわあああああっ!!」
 「おい!落ち着け!俺だ俺だ蟹五郎だ!」
 「うわー!うわー!蟹五郎だー!!」
 「おい!」
 「蟹五郎!?」
 「そうだ!」
 「蟹五郎!」
 言って(ひし)と縋り着いてくる夥間(なかま)の身体を抱き返し、蟹五郎は呆れて言う。
 「お前、こんなところで何してんだ」
 夜道でちょいと脅かされただけで恐慌に陥る鯉七である。山の池から里方まで、同道もなしに来ることは珍しかった。蟹五郎の問いかけは至極尤もであったのだが、鯉七はそれに答えを与ってもやらずに、いきなり蟹五郎から身を離した。
 「そうだ!こんなところでこうしてる場合じゃない!」
 「だから何で」
 「桔梗が散ってしまう!」
 「桔梗?」
 「そう!桔梗!」
 皆目分からず首を傾げる蟹五郎を他所(よそ)に鯉七はあたふたとその横をすり抜けようとして          蟹五郎の足に、(おの)ずから蹴躓いて転がった。下敷きとされた地面が浅く抉れる。
放っても置けずに立ち上がらせ、泥を払って遣ると、鯉七は目に涙を浮かべて言った。
 「桔梗ヶ池に行くところなんだ」
 「桔梗ヶ池だと?」
 「奈良井の桔梗ヶ池さ。知っているだろう?」
 「知るも知らぬも、我らが姫様(ひいさま)には御姉妹御同朋、奈良井の奥さまのお住まいではないか」
 「そう。その桔梗ヶ池に行かなきゃならない」
 あまりと言えばあまりの答えに蟹五郎は暫時言葉を失った。
 「なんだってまたそんな無茶を」
 桔梗ヶ池へはつい先日、つかいが行って帰ってきたばかりである。今また人を遣わすには及ばぬ筈であった。その上に鯉七では遣いの用に立つまい。
本性を(うろくず)とする鯉七は、あやかしとなっても尚、水から遠くは離れられぬ。側に気の通った水脈でもあれば格別だが、でなければ山や原を越えての道行きは叶わぬ身だ。
水にも(おか)にも応変の利く蟹五郎とて水脈を離れての遠征は辛いものを、まして鰓より他に呼吸器を持たぬ鯉七のこと。
万年姥だの奥山椿だのといった古強者に引き比べるまでもなく未熟の範疇を出ない鯉七が、遥か奈良井の桔梗ヶ池までそぞろ歩こうなど、まったく正気の沙汰ではないのだった。
訝しげな蟹五郎の声に、鯉七はばつの悪そうな顔をした。

*

 その鯉七が()()然々(しかじか)語るには          
 「つい今日の夕のことだ。桔梗ヶ池へのつかいのものが、山のお池、夜叉ヶ池の姫様の御前にて、奥さまの消息を語ったと思え。
お池の(ぐるり)では白桔梗が花盛り。水面(みなも)の青によく映えて、それはそれはえも言わぬ美しさでございましたが、しかし尚一層見事だったのは、ひときわ鮮やかに咲き立った白桔梗の一本(ひともと)を、お(ぐし)についと挿頭(かざ)しなされた奥さまのお姿であらしゃいました、とな。
姫様は終始大人しゅう上段に端座しておられたが、その時はやや身を乗り出され、一言「いいわね」と。
「あたしもそんな挿頭(かざし)が欲しい」と仰せになったのよ」

*

 「それで桔梗ヶ池の奥さまに、一茎分けていただけはすまいかと……蟹五郎?」
 語り終えかけて鯉七は、一言だに(いら)えを返さぬ蟹五郎に気付き窺う。と、幼さを残した鯉七の(つら)に蟹五郎の(つばき)が飛んだ。
 「阿呆かお前は!一体何度姫様のわやくに振り回されて痛い目見たら気が済むんだ!」
 予期せぬ罵声に鯉七は(おお)きな目を数度瞬かせ、やがて遅い理解ののちに眉根を寄せた。
 「死ぬまでだよ!第一これは姫様のお申し付けじゃない!」
 「本気で死ぬぞ!今回は!それに姫様のお申し付けじゃ……」
 途端、蟹五郎の薄い唇が鎮まる。
 「姫様のお申し付けじゃ、ない?」
 「そうだよ。姫様のお申し付けじゃない」
 そう言うと、鯉七は鼻で荒く息を吐いた。
 「どういうことだ?」
 「どうって、だから、姫様のお申し付けじゃ」
 「それはさっき聞いた」
 「…だから、姫様は欲しいとは言ったけど、俺に取って来てとは言わなかった。俺が勝手にやってることだ」
 「なんで好き好んで無茶をする」
 蟹五郎の声に篭もっていた、幼い女主人への憤りが、一転して鯉七への呆れに変わる。それを察したかどうか、鯉七は目を逸らし、逸らしながらもはにかんで言った。
 「取って来たら、姫様の喜ぶ顔が見られる。それに白桔梗の挿頭は、姫様にお似合いだ」
 「見てもいないだろう」
 「見なくたって分かるさ。ありありと思い浮かべられる」
 そう言って胸を張る鯉七は、それでも実際に白桔梗を挿頭した女主人を見れば、それこそ生まれてはじめて女神を見た人の子の様に、間抜け顔で見つめ、おぼこく(まば)り、信者となって拝むのだろう。
畢竟この男は、我らが女主人の、間抜けでおぼこい一の信者なのだ。
そして厄介なことには蟹五郎の親友でもある。
鯉七がこうなれば無闇に止めたところで無駄であることは、誰あろう蟹五郎が一番よく知っていた。
 「……そこまで言うなら理解(わか)った。強いて止めん」
 「蟹五郎!」
 「でも、お前が死ぬと分かってて見殺すわけにはいかんからな」
 一つ長嘆息して言う。
 「桔梗ヶ池へは俺が行く。お前はここで俺の代わりに関を守っていろ」
 「しかしそれでは」
 「俺ならお前よりは陸に慣れてる。お前が鰭でよたよた這って行ったんじゃ、仮令(たとえ)着いた時点でお池の桔梗に咲き残りがあったとしたって、帰るまでに萎れてしまうぞ」
 「う……」
 「貸し一つだ。屹度(きっと)返せよ」
 頭に手を乗せて言うと、鯉七はごくりと唾を嚥下して肯いた。
 「わ、わかった」
 それで話が決まった。

*

 蟹五郎が草鞋の藁緒(わらお)を結ぶ横で、鯉七がそわそわ身じろぐ。
 「まだか。こうしている間にも桔梗が散りはせぬか」
 「急くな。夜には散らん」
 「そうか。いやしかし」
 「落ち着け。もう()つところだ」
 「うん。なれど一人で関を守るのは寂しいな」
 「唄でも唄っておれ」
 おざなりに投げた言葉に、鯉七は真面目な顔で「そうする」と言った。

*

 「(かーり)(かーり)()っつ(くち)ー (あーと)(かーり)(さーき)になったら (こーうがーい)()ーらしょー」
 鯉七の、調子外れの唄を背に、雁ならぬ蟹は笄ならぬ挿頭を取りに、三国ヶ嶽を後にする。







姫に弱い鯉と鯉に甘い蟹。